タケジロウ・ヒガさんの残した言葉【日系二世兵士】1923年7月22日~2017年10月7日
「もともとは、物を壊す、人を殺す。それが目的。戦争は、私たち人々の欲がある限り、あるかもしれませんがね。戦争ほどばかばかしい人間の技はないと思います。」
「いじてぃめんそーれ」
(出てきてください!)アメリカ陸軍情報部の言語学兵。ハワイ移民2世で、アメリカ合衆国ハワイ州ワイパフ出身。両親は沖縄県からハワイへ移民した日本人夫婦。生まれはハワイだが、2歳から少年期までを両親の出身地である沖縄本島の旧中城村(後の北中城村)島袋で過ごす。
日中戦争開戦後に義勇兵の募集が開始されると、これに強く反発。1936年にハワイへ戻り、オアフ島ホノルルの姉夫婦のもとに身を寄せた。
しかし真珠湾攻撃後、アメリカ軍でもハワイの日系2世兵募集が開始され、日系人への風当たりが強かったこともあり、苦悩の末に兵に志願。
MISの語学兵として日本軍の資料の翻訳、捕虜の尋問にあたった。
太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年)では、沖縄育ちの上に日本語にも強いことから、情報部隊の一員として同行を命じられ、沖縄の情報をアメリカ軍に提供する任務を負った。
こうしてヒガは生まれ育った国を、それも沖縄を敵に回さざるを得なくなった。
沖縄上陸後は島内の壕を回り、壕に避難している県民たちに沖縄方言で投降を飛びかけ、県民たちの命を救った。
尋問を命じられた捕虜たちの中には、小学校時代の恩師や同級生たちの姿もあった。
同年のアメリカ合衆国による沖縄統治まで沖縄に滞在したが、その間、沖縄方言をはじめとする言葉のみを自分の武器と信じ、県民たちに対して決して銃を放つことはなく、投降を呼びかけ続けた。
ヒガたちのこうした活躍は決してすべての沖縄県民を救ったわけではなく、彼らの言葉を信じずに命を落とした県民も多く、戦火の犠牲となった県民は10万人以上にも昇ると見られている。
とはいえ、MISの日系兵の存在がなければ犠牲者の数はそれ以上と見られていることも確かである。
しかしながらMISの存在は情報工作などの性格上から極秘扱いされ、1970年代まで明るみに出ることはなかった。
大沢啓二さんの残した言葉【大沢親分】1932年3月14日~2010年10月7日
「人間にはわらじをつくる人、みこしを担ぐ人、みこしに乗る人がいる。 誰が一番偉いんじゃなくてよ、それぞれ与えられた役割をまっとうすることが大事なんだ。」
「男なんて、人生の浮き沈みの中からしか、自分を見つけることができねぇんだから。気持ちだけは、いつも前を向いて負けねぇようにしないとな。」
神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者・評論家。 「大澤」と表記されることもある。本名は大沢 昭、旧名は大沢 昌芳。
愛称は「親分」「大沢親分」「大沢の親分」。
石坂洋次郎さんの残した最後の言葉【小説家】1900年1月25日~1986年10月7日
「これでよし」
(最後の言葉)日本の小説家。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。戸籍のうえでは7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。
葛西文学への反撥から健全な文学を志し、『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。